色々アルワナ

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「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」|映画という虚構に盲目であること。ハリウッドの功罪とタランティーノの自戒。

たった今「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を見た。

タイトル長すぎて窓口で「えーっとワンスアポン…なんだっけ……」しか言えなかったけどチケット買えた。

以下、見たてほやほやフレッシュな感想メモ。

 

ハリウッドには強烈な光と闇のコントラストがある。

 

リックとクリフは虚構だ。全くの架空の人物。そしてラストの展開は全くの夢物語だ。

でもこれは映画で、映画とは虚構で、虚構には意味があり、価値があり、役目がある。

映画には映画にしかできないことがある。

タランティーノ作品がいつもそうであるように、この作品からは映画に対する深い愛と賛美を感じた。

しかしそれと同時に、映画が虚構を描くことに対する自戒や皮肉のようなものも感じられた。

 

ハリウッド黄金時代の遺物である打ち捨てられた撮影所跡地で暮らす盲目の老人はまさにハリウッドの闇の象徴みたいだ。彼は盲目で、闇の中にいる。光り輝くシャロン・テートの対極にいる。

そして盲目の老人は「自分を世話するヒッピーの少女は自分を愛している」という虚構の中で生きている。ヒッピーの少女が与える嘘の愛を信じ切って(または信じ込もうとして)盲目になっている。

ヒッピー達は盲目の老人に夢を見させてやる代わりに利益を得ている。

ハリウッドが人々に夢を見せる代わりに富を築いているように。

クリフが「老人じゃなく、あんたの方が盲目だ」と言われるけれど、それはこの映画が虚構であることの宣言というか、クリフという存在はこの映画が見せる夢にしか過ぎないよ、というある種の注意書き(アテンション)のようにも聞こえた。

この映画はあくまで夢物語に過ぎない、虚構に溺れて盲目になることはあの哀れな老人になることと一緒だぞ、と。

 

でも注意書きしたってなんだって、ハリウッドが薬にも毒にもなる危険な”夢”で商売してることにはかわりないんだよね。

クリフが吸ってるLSDに、リックが吸ってる煙草に、「摂取したら身体に害があります」なんてめっちゃ無責任な注意書きがあるようにさ。

タランティーノのバイオレンス映画なんてまさに強烈な幻覚剤みたいに魅力的で、中毒的だ。

エンドロールではリックが嘘八百並べながら煙草の宣伝をしている。身体に明確に害のある煙草を「喉に刺激もなく~」なんて大嘘ついて勧めてる。

これは”ハリウッドが吐いた嘘が害になり得る”という分かりやすい例だと思う。

嘘=虚構は、希望にも害にもなり得る。それがハリウッドの抱える功罪。

タランティーノはこの映画を通して映画だからこそ描ける夢と希望の物語を紡ぎつつ、同時に自戒的にハリウッドの虚構の醜い内幕も晒している。

 

ポランスキー邸を襲撃しようと狂気に満ち満ちたヒッピー達が乗り込む車内で、不意にリック・ダルトンの話題が出る。

「小さい頃ドラマを観てた!」とこの一瞬ばかりは子供のようにはしゃぐヒッピー達は、かつて確かにハリウッドから夢を与えられていた。

しかし狂気はすぐさま戻ってくる。

「小さい頃からずっとTVで人殺しを観続けてきた」自分達に暴力を植えつけたのはTV、映画、ハリウッドだ。だったらそれを植えつけた張本人を、人殺しを演じ続けてきたリック・ダルトンを殺そうじゃないか、と。

そして現実と違い、この映画の中の狂気の者達はダルトン邸を襲撃する。

罪なきシャロン・テートとその友人達ではなく、ハリウッドの罪に加担してきたリックに狂気が向けられる。

もちろんチャールズ・マンソンとマンソン・ファミリーという狂気は当時の複雑な世界情勢とアメリカの状況が複合的に組み合わさって生まれた産物であるが、このような事件がハリウッドの娯楽産業のまさにど真ん中で起こったことはとても象徴的だ。

これは、もしハリウッドが本当に罪を抱えていて、その罪ゆえに狂気が生まれてしまったならば、その責任を取るべきなのはシャロン・テートのような無実の存在ではなく、リックのような者達……つまり暴力と殺人の虚構物語を作ってきたリック=タランティーノ監督自身なんだ、という責任の自認なんじゃないだろうか。

この映画の中でリックはずっと咳き込んだり痰吐いたりして明らかに気管支か肺に問題を抱えてる。それは、若い頃に煙草の宣伝で「喉に刺激なし」とか嘘並べてたリックが、ある意味でその嘘の責任を取った、因果応報の報いを受けている、ってことなんじゃないかな。

そうやって責任の所在を明確にして、襲いかかってくる狂気に対して、タランティーノは自らがこれまで培ってきた”映画”スタイルそのもので応える。

現実と虚構の物語を行ったり来たりするこの映画が吐く最も大きな嘘は、クリフがLSD=幻覚剤を吸ってから始まる。

幻覚剤で酩酊状態のクリフが、小賢しい狂気者達を嘲笑し、貶し、嬲り殺す。

タランティーノ流の激しいバイオレンスに、見ている私たちは溜飲を下げる。

よくやった! これぞ映画による現実への復讐だ!

しかし私たちが見ているのは所詮映画のよって作られた虚構に過ぎず、それはLSDが見せる幻覚のように、決して現実たり得ないんだ。

その境を見誤ってはいけない。現実と映画は違うんだ。

虚構の中の暴力を現実に引き摺り出してはいけないし、虚構に溺れて現実に盲目になってもいけない。

けれどハリウッドという存在はあまりにも魅力的な劇薬だ。

果たしてハリウッドは、その責任を取れているのか?

 

夢と希望という虚構を見せるからこそハリウッドには意味がある。

しかしハリウッド黄金期の勢いはとうに衰え、夢が完全に朽ちつつある1960年代後半。

夢も希望もない無力感に包まれたアメリカン・ニューシネマの時代が始まろうとしている頃。

アメリカの力が弱まり、古きに変わって外国からの若き才能(まさにロマン・ポランスキー)が台頭してきた頃。

シャロン・テート惨殺と一連の事件は、ハリウッドに僅かばかり残っていた夢を完全に打ち砕き、時代を次に押し進めた。

映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の虚構世界の中では、ハリウッドの夢は持続していくように思われる。

あの後、リックは暴漢を撃退した勇敢なヒーローとして一躍時の人になってハリウッドの第一線にカンバックするのかもしれない。ポランスキー映画に出演して名俳優としての地位を獲得するのかも知れない。

クリフとの契約を続け、兄弟以上妻未満の親友と、美しい妻に囲まれてハリウッドドリームを体現しながら生きていくのかも知れない。だってリックが読んでいたウエスタン小説はまだたった半分だった。

鼻が曲がるほど強烈な、ハリウッド黄金時代への郷愁の匂いがする。

新しい空虚な時代の到来を告げるヒッピー達を殴り飛ばすのが常にクリフであることにはきっと意味がある。

クリフはかつて戦争の英雄だったらしい。あの年頃なら恐らく第二次世界大戦だ。

アメリカでは第二次世界大戦に従軍した世代を「最も偉大な世代」と呼ぶ。

強く勇ましく自信に満ち溢れたアメリカの象徴。

第一次世界大戦の戦争好景気と狂騒の20年代第二次世界大戦に勝利し、世界最大の超大国に上り詰めた時代。アメリカが最も光り輝いていた時代。同時にハリウッドも黄金色に輝いていた。

ジョン・ウェインヘンリー・フォンダチャールトン・ヘストンハンフリー・ボガートフランク・シナトラ

マチズモとホモソーシャルの男達!

 

そりゃ!リック・ダルトンとクリフ・ブースの!ブロマンス描写が!濃厚なわけだよな!!!!

 

クリフが未成年の少女から迫られて断ったところ、心底安心した。そこはしっかり現代の映画だった。シナトラだったら危なかった。

クリフがヒッピーの女の子の年齢をしつこいほど確認するのは未成年者への性的暴行で多くの告発を受けているポランスキーへの皮肉なんでしょう。

 

あと、クリフのブルース・リー(作中唯一のアジア人)に対する態度とか、女性描写に関してとか、ちょっと引っかかるところはあったけど、それは演出なのかなんなのか。

クリフに関しては、マチズモの男として意図したものなのかも知れないけど。奥さんの件もあるし。

でもマックィーンにあんな下品な台詞を言わせているところを見るに、タランティーノの素の可能性も。

それにしてもマックィーン全然似てなかったね。そこが一番びっくりした。ウィンターズ中尉じゃん。

 

さて、最後は急にとっ散らかったけど、とにかく面白かったです、ということが書きたかったです。

まだ一回しか見ていないので、今後回を重ねる機会があれば、その都度感想も変わっていくでしょうが。

今回は初回鑑賞後すぐのフレッシュなくだ巻きとなりました。

 

おわり